1. 生芋を粉末状にするという一大発見
ご存じのように蒟蒻の原料は、サトイモ科の蒟蒻芋。その主成分であるマンナンが、石灰水などを加えることで固まる性質を利用して、プリプリぐにょぐにょとした独特の食感が生まれるのだが、江戸時代において蒟蒻芋の栽培が盛んだったのが、常陸国・水戸藩だった。しかし、蒟蒻の生玉は重くて腐りやすく、江戸の消費に応えるための長距離輸送や長期保存はかなり困難だったという。
そんな折に一大発明をなし遂げたのが、茨城県久慈郡諸沢村(現:常陸大宮市)の中島藤右衛門(1747年~1828年)だった。彼は蒟蒻の生芋を薄く輪切りにして乾燥・粉砕し、マンナン粒子だけを分離することに成功した。これがいわゆる精粉(せいこ)で、粉から水に戻し食用にする方法を、試行錯誤のうえ発見するに至ったのだ。
そんな折に一大発明をなし遂げたのが、茨城県久慈郡諸沢村(現:常陸大宮市)の中島藤右衛門(1747年~1828年)だった。彼は蒟蒻の生芋を薄く輪切りにして乾燥・粉砕し、マンナン粒子だけを分離することに成功した。これがいわゆる精粉(せいこ)で、粉から水に戻し食用にする方法を、試行錯誤のうえ発見するに至ったのだ。
2. 蒟蒻産業の祖を祀る蒟蒻神社
そんな製粉加工技術の発明により、軽量化と簡便化が飛躍的に進んだ水戸藩の蒟蒻産業。いつでもどこでも蒟蒻が作れるようになったことから販路が急速に広がり、藩の特産品として財政を支えるまでになったという。1860年3月の桜田門外の変で井伊大老を襲ったのは水戸藩士。彼らの行動資金も、実は豪商となった蒟蒻商人たちが献上したといわれている。
さて、その後現代に至るまで、蒟蒻作りは精粉を用いたものが主流。中島藤右衛門翁の発見のおかげで、我々も日々美味しい蒟蒻を食せるというワケだ。久慈郡大子町(だいごまち)には「蒟蒻神社」なる神社があり、蒟蒻業界の祖となった中島藤右衛門を祀っているという。胃腸の箒、身体の砂払と言われる蒟蒻。近隣を訪れた際は参拝に訪れて、健康にも一役買ってくれる蒟蒻に感謝してみてはいかがだろうか。
さて、その後現代に至るまで、蒟蒻作りは精粉を用いたものが主流。中島藤右衛門翁の発見のおかげで、我々も日々美味しい蒟蒻を食せるというワケだ。久慈郡大子町(だいごまち)には「蒟蒻神社」なる神社があり、蒟蒻業界の祖となった中島藤右衛門を祀っているという。胃腸の箒、身体の砂払と言われる蒟蒻。近隣を訪れた際は参拝に訪れて、健康にも一役買ってくれる蒟蒻に感謝してみてはいかがだろうか。
結論
芝居、蒟蒻、芋、蛸、南京とは、江戸の町娘の好物。蒟蒻百珍というレシピ本まで刊行されるほど、江戸の町で蒟蒻は大層好まれていたようだ。味がないようだが、食感が何ともいえず、カロリーも極めて低い蒟蒻。歴史を紐解けばありがたみが一層湧いてくる。