1. 豊臣秀吉とは

尾張国、現在の愛知県の農民の子として生まれた豊臣秀吉は、実は幼少期の記録が非常に少ない。これも一農民の子どもでしかなかった証拠とも言える。その後の人生を大きく変えることになる織田家に仕えたのは17歳頃。信長の草履を懐で温めた話はあまりにも有名だが、非常に気の利く男であったと言われている。
武力よりも戦略
豊臣秀吉は前述の草履の一件以外にも、各所を仕切り、効率よく回すことに長けていたという記録が存在する。その才覚を見抜いた信長は、秀吉を信頼し、対する豊臣秀吉も信長を支え続けた。いち農民の子どもが城を持ち、任される領土を着々と増やし成長をしていく。自身の武力ではなく、人をうまく使い、信頼を得て領土を広げていく新しいタイプの戦国武将だったのかもしれない。
秀吉の施策
信長亡き後、明智光秀、柴田勝家を倒し、信長に代わる形で地位を獲得。その地位を知らしめるように四国、九州征伐を行い、天下統一を成し遂げる。朝鮮征伐も企てたがこれは失敗に終わる。また、関白、太政大臣になり、豊臣を名乗ることとなる。その後、太閤検地や刀狩りなど、多くの新施策を行い、兵農分離の封建社会の礎を築くこととなる。
2. 派手好きな豊臣秀吉

派手好きとして知られる豊臣秀吉。ただし、これは晩年になって天下統一を成し遂げてからのこと。数ある贅沢品をたらふく食べ、きらびやかな衣装に身を包み、花見などの宴を繰り返したのも天下統一を世に知らしめるためだったのだろう。実際には質素な暮らしの方が性に合っていたようだ。
茶の湯
茶の湯は戦国時代と切っても切り離せない関係。茶の湯に目をつけたのは織田信長だ。御茶湯御政道という政策を打ち出し、自分と信頼する家臣のみに茶の湯を許した。豊臣秀吉も許された1人だったと言われている。茶の湯は精神鍛錬の場としてだけではなく、密会の場としても活用されていく。そして豊臣秀吉が天下を取るとさらに発展をしていく。
黄金の茶室
天井、壁、柱はもとより、障子のさんまで黄金に埋め尽くされた茶室は、派手さを好み豊臣秀吉を語るうえで欠かせない存在でもある。実はこの茶室は組み立て式で、いろいろなところに持ち運びができるようになっていたらしい。そのほかにも大規模な茶会や仮装茶会など、ユニークな茶会を開いたことでも知られている。一見突拍子もないように感じられるさまざまな催しも、すべて豊臣秀吉の策略によるものだったのかもしれない。現に枠組みにとらわれない茶の湯の楽しみ方により、大衆に茶の湯が広がったことは間違いない。
3. 豊臣秀吉の好物

割粥
豪華絢爛という印象の強い豊臣秀吉だが、出生の名残か実は質素な食事を好むところがあったらしい。とくに好きだったと言われているのが割粥。高級な珍味や贅沢食材を食せば食すほど、いつもお腹をすかせていた時代に食べたごはんが一番美味しかったと話していたという逸話も残っている。割粥は米を細かく砕いて作る粥のこと。砕くことで消化がよくなり、少ない量の米でも満足できるというものだ。そのほかにもごぼうや大根といった、庶民的な野菜を好んでいたというエピソードもある。
結論
豊臣秀吉は、農民の子から天下統一を成し遂げた日本史上の中でも類い稀なスターダムを登ったひとり。戦国武将のなかではもっとも豪華絢爛を愛した印象もあるが、実は質素な食事の方が好みだったようだ。好物は割粥と聞くと少し身近に感じるところがあるのも面白い。
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