1. 酒好きで知られた福沢諭吉

一万円札の肖像に描かれるほどの偉人、福沢諭吉。誰もが知る数々の書籍を世に残している。堅いイメージのある彼だが、実は大のお酒好きとして知られている。生涯に渡ってお酒を好み、とくにビールに目がなかったよう。3回の外遊ののちに西洋人の生活様式について書いた『西洋衣食住』には、以下のような記述がある。
"「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。
(「西洋衣食住」/『福澤諭吉全集』所収)"
現代の言葉に訳すなら、「ビールという酒がある。それは、麦でできた酒で苦味があるが、胸の内を明かすことができる。その苦味を好んで楽しむ人も多い。」といったところ。ビールは、今でいう「飲みニケーション」にぴったりの酒だということを言っているのだ。
"「ビィール」と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し。
(「西洋衣食住」/『福澤諭吉全集』所収)"
現代の言葉に訳すなら、「ビールという酒がある。それは、麦でできた酒で苦味があるが、胸の内を明かすことができる。その苦味を好んで楽しむ人も多い。」といったところ。ビールは、今でいう「飲みニケーション」にぴったりの酒だということを言っているのだ。
2. 勉強漬けの日々でも欠かせないお酒

福沢諭吉は、いつからお酒好きになったのだろう。彼の生い立ちから辿ってみよう。
福沢諭吉の少年時代
福沢諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の子として生まれた。中津は門閥制度のしがらみが強く、少年時代の諭吉は封建制の辛さを肌で感じながら育ったようだ。下級藩士だった父親は出世の道がないため、諭吉を坊主にしようかとも考えていたらしい。
適塾での勉強とお酒の日々
22歳の諭吉は、兄のすすめで大阪の適塾に入門。全国から秀才が集まる塾で勉強ばかりしていたかといえばそうでもなく、仲間たちと金銭の許す限りお酒を飲んでいたという。飲みっぷりだけでなく食いっぷりもよく、自らを「牛飲馬食ともいうべき男」と称していた。学生のため常にお金がなく、お酒の調達には苦労したようだ。
江戸、そして海外へ
適塾を卒業してから江戸へ出た諭吉は、蘭学塾を開く。これがあの慶應義塾の起源だ。この頃も、お酒は第一の楽しみだったらしい。
その後3回の海外留学を経験した諭吉。その頃に出会ったビールをきっかけに大のビール党に。自宅にはビールを常備し、知人が来ると振る舞っていた。お酒は好きだが乱酔することは嫌い、「品のよい大酒飲み」と自覚していたようだ。
その後3回の海外留学を経験した諭吉。その頃に出会ったビールをきっかけに大のビール党に。自宅にはビールを常備し、知人が来ると振る舞っていた。お酒は好きだが乱酔することは嫌い、「品のよい大酒飲み」と自覚していたようだ。
3. 禁酒中の名言

お酒好きで知られた諭吉だが、30代半ば頃から体調を崩し、節酒に励むようになった。
名言の誕生
しかし大好きなビールだけはやめられなかった諭吉。ついに「ビールは酒にあらず」という名言を生み、毎日のようにビールを飲んでいたという。
「その他のお酒は断ち、飲んでいるのはお酒ではないビールのみ」という持論によれば、禁酒に成功したということらしい。「とうとう酒欲を征服して勝利を得た」と宣言もしていた。
「その他のお酒は断ち、飲んでいるのはお酒ではないビールのみ」という持論によれば、禁酒に成功したということらしい。「とうとう酒欲を征服して勝利を得た」と宣言もしていた。
結論
「ビールはお酒ではない」という名言を残してまで、ビールを愛した諭吉。仕事後のビールが何よりも楽しみという人なら、その気持ちがわかるのではないだろうか。とはいえ飲みすぎは禁物。楽しい飲み会でも、ほどほどにしながらお酒をたのしもう。