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【佃煮】は本能寺の変から生まれた!?家康の育んだ歴史をひも解く。

【佃煮】は本能寺の変から生まれた!?家康の育んだ歴史をひも解く。

投稿者:オリーブオイルをひとまわし編集部

監修者:東京農業大学 醸造科学科 教授 前橋健二(まえはしけんじ)

2020年3月28日

今や日本の食卓に欠かすことができないほどの存在と言っても過言ではない、佃煮。そのルーツには、ある大物たちの歴史ドラマが隠されていた。今回はそのドラマの流れをざっくりと追いながら、今のように全国的に広まるまでを紹介していく。

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1. すべては、あの歴史的大事件から

諸説あるが、佃煮が現在のように全国的に知れ渡るようになったのには、徳川家康が一役買っている。家康からすれば何役買っても足りないほどの、深い理由が存在していたのである。時を遡ること430年以上前。京都・本能寺に宿泊している織田信長を、家臣である明智光秀が襲う「本能寺の変」が起こった。清州同盟により信長と友好関係にあった家康は、このことを摂津国・堺(現在の大阪府・堺市)から京都へ上洛する途中の、河内国・飯盛山(現在の大阪府・大東市と四条畷市にまたがる標高314.3mの山)付近で知ることとなる。自分も襲われるのではと危機を感じた家康は、自身の城である三河国・岡崎城(現在の愛知県岡崎市)へと帰りたがった。が、何せ遠い。

参考までにナビで大阪府・飯盛山城跡から愛知県の岡崎城までの所要時間を調べてみたが、徒歩および自転車での所要時間は43時間24分、総距離は173.6kmもあった。現代の整備された道を通ってしてもこの時間と距離であるのだから、当時の条件ではさらに時間がかかったであろう。しかも一般的な道を通ったのでは、光秀が放った追っ手に見つかりやすく、落ち武者狩りに合う可能性も考えられた。そこで家康一行は、後に「神君伊賀越え」と称される、道なき道を行く逃亡ルートを取った。それでもやはり危険な道であり、実際に同じく信長派で家康たちより少し離れて移動していた穴山信君は、途中で落ち武者狩りの激しい一揆に合い命を落としている。

2. 助け船との出会い

険しい山々を越え、一揆の集団に見つかり危険な目に合いながらも、家康は岡崎城へと逃げ伸びた。そしてその最中の一つの出会いに、今後の佃煮と家康の運命を切り開くものがあった。その出来事が起こった場所は神崎川、現在の大阪市住吉区にあたる。一刻も早く先へと進みたかった家康だが、不運なことに川を渡るための舟がなかったのだ。そこへ手を差し伸べたのが、摂津国・西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区・佃)の森孫右衛門という庄屋と、この地域の漁師達だったと言われている。彼らは家康に漁船を貸し、一帯の水路についても詳しく力があったため、心強い水先案内人となった。

そして道中の食糧になるようにと、ある食べ物を家康に渡した。不漁時のためにと備えておいた、大切な小魚や貝の煮物だ。塩や醤油で煮詰めてあり保存性が良く、これが後に日本中に知れ渡る「佃煮」の原型である。命からがらの旅路の中で、この小魚の煮物はさぞかしありがたく、救いとなったことだろう。後に江戸へと国変えをした家康は、摂津国・西成郡佃村の衆を呼び寄せ、土地を与えて住まわせた。原則禁漁とされていた白魚の漁業権・江戸近郊全般での漁業権・武家屋敷へ出入りする許可を与え、税の免除まで受けられる高待遇であり、いかに家康が恩を感じていたかが見て取れる。

3. どのようにして全国へ広まったのか

移住してきた漁師たちは、もらった土地の浅瀬を埋め立て、故郷と同じ「佃島」という名前を付けた。そして売り物にならないような雑魚があると、家康に差し出したものと同じ煮物を大量に作り、売り始めた。煮物は保存性が高くて味が良く値段も手頃だったため、まずは庶民を中心に食べられるようになり、いつしか土地の名前をとって「佃煮」と呼ばれるようになる。江戸中に知れ渡った佃煮は、参勤交代でやってきた大名たちが藩への土産として持ち帰ったことから、次第に全国へと広がり始めた。西南戦争や日清戦争の際には軍用食として多量生産され、帰宅した兵士たちが馴染みの佃煮を好んで食べるようになっていたことから、一般家庭でも日常的に食べられるようになる。

今では日本各地に、主なものだけでも118種類は存在しているという佃煮。それぞれの地域に特色のある名産品があり、甲信越や中部地方の山間部で受け継がれてきたイナゴ・はちの子・ざざ虫といった食べられる虫のものは、海のない土地での貴重なたんぱく源としての役目も担ってきた。きゃらぶき・クルミなども山ならではの物だった。他にも子持ちシシャモ・牡蠣・うなぎ・ほたるいか・ゴーヤなど、全国には珍しい佃煮が多数存在している。

結論

佃煮が現在のように知れ渡るきっかけは、確かに徳川家康が作ったものかもしれない。だが、伊賀越えを支えたのは、飯盛山で出会った商人や、家康を支えた家臣のおかげでもあることを忘れてはいけない。人とのつながりや伝統を受け継ぐことの大切さを噛みしめながら、これからも旨い佃煮を味わい続けていきたいものである。
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