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日本料理

日本料理の歴史を紹介!和食との違いや京料理についても解説!

投稿者:オリーブオイルをひとまわし編集部

監修者:管理栄養士 黒沼祐美(くろぬまゆみ)

鉛筆アイコン 2022年1月 3日

日本料理は、日本人が古くから受け継いできた伝統的な料理である。本記事では、日本料理がどのような歴史をたどってきたのか、詳しく紹介する。また、日本料理と和食の違いや、京料理の種類などについても解説していく。

  

1. 和食とは?

日本料理
和食は日本人の伝統的な食文化として、平成25年にユネスコ無形文化遺産に登録されている(※)。その登録内容として、和食(日本料理)の特徴が次のように示されている。

多様な食材の持ち味を尊重する

四季のある日本では旬の食材が豊富だ。季節により異なる多様な海の幸、山の幸など素材の味わいを生かすために、調理方法も工夫されている。出汁の使用のほか、主に生のまま食べる、煮る、蒸す、茹でる、焼くなどのシンプルな調理法が用いられる。また、豊富で良質な水を活用した浸す、さらすなどの調理法も日本特有である。

栄養バランスに優れている

和食の基本となる一汁三菜というスタイルは、栄養バランスの調整にも向く。ごはんと汁に漬物や複数のおかずを添えるため、魚介や肉、野菜などを組み合わせて食べることができる。さらに、出汁や発酵食品の使用により、旨みや風味のある満足感の高い食事となる。動物性油脂の摂り過ぎを防ぐことにもつながり、カロリーの調整もしやすい。

自然や四季を表現した盛り付け

旬の食材を活用するだけでなく、盛り付けの際には季節感のある器や調度品を利用する。また、季節の花、葉などの自然素材で料理を装飾したり、飾り切りで花などを表現したりする。このように、料理の盛り付けにも工夫し季節感を楽しむ心が表れていることも、日本人の食文化ならではの特徴である。

年中行事との関わり

古来より神を自然のなかに感じてきた日本人は、神と人が交流する場とされる宴において、食べ物を供える風習を大切にしてきた。現在も年中行事において食は欠かせないものとされている。おせち料理やお雑煮をいただくお正月、年越しそばをいただく大晦日などの年中行事のほか、お食い初めや七五三など節目の儀式も、家族で集い和食を囲み祝う慣習が受け継がれている。

日本料理と和食の違い

日本料理と和食という言葉が混同されがちだが、和食が古くから用いられる言葉であるのに対し、日本料理は比較的新しい呼称とされている。明確な区別はないが、一般的には下記のように使い分けられることが多い。
  • 日本料理:割烹や日本料理店などで提供される、高度な技術を要する料理
  • 和食:家庭食を中心とする日本の食文化
つまり、和食のなかでもとくに高級なものを日本料理と呼び、和食は日本料理も含む広義な言葉ということになる。

2. 日本料理の歴史

精進料理
日本料理(和食)はどのように誕生し、どのように発展していったのだろうか。日本料理の歴史をたどりながら紹介していく。

縄文・弥生時代

縄文時代には、深さのある土器が発明された。土器を用いることにより、煮る、茹でる、スープを作るなどの技術も取得されていたと考えられる。また、この時代にはすでにさまざまな種類の貝を食べていた。後期には稲作が中国から伝来し、弥生時代になると稲作技術の向上とともに米が主食となる。高坏に盛ったごはんとおかず(魚、貝、鳥獣の肉、山菜、きのこなど)を食べるようになり、魚が生食されていたという記録もある。

飛鳥・奈良時代

和食文化の原点ともいわれる「肉食禁止令」が発布される。魚や大豆、米で栄養を補給するようになり、物足りなさを補うために出汁や彩りなどの工夫もされるようになった。肉食禁止令は明治時代に入ってから廃止されたため、食肉がほとんど料理に使用できない時代がかなり長く続くこととなる。
飛鳥時代には遣隋使により中国から箸文化が伝わる。奈良時代には、のちの饅頭や煎餅の誕生につながる唐菓子、酢の物や和え物の原形となる魚膾、寸法という概念などが伝わる。また、天皇用や儀式用として酒や酢、醤油の醸造がはじまった。

平安時代

貴族文化の平安時代には、宴会の原形となる「式三献」や日本で最も古い儀式料理である「大饗料理」が誕生した。大饗料理は中国の影響を受けたもので、一つの大きな卓にいくつも(偶数)のお皿を並べるのが特徴だ。遣唐使廃止後には、盛り付けの工夫など日本らしい特徴が見られるようになっていく。調理法は、茹でる、焼くなどシンプルなものが中心だった。

鎌倉時代

新しい幕府により貴族文化から一転、質素倹約な時代となる。そのなかでも調理法の発展は続き、旨みを足すために食材にごまや味噌などを和える方法が用いられるようになる。また、揚げるという調理法が確立されるようになった。野菜の品種改良や茶の栽培も進み、肉食のできない質素ななかでも和食文化は発展していく。僧侶により禅宗の「精進料理」が伝えられたのもこの時代である。

室町時代

公家との交流が再び盛んとなり、武家が客をもてなすための儀式料理である「本膳料理」が誕生する。奇数の膳組を基本とするもので、平安時代の大饗料理よりも日本的な要素が強く日本の儀式料理の完成形ともいわれた。
昆布出汁や薬味としてのわさびの使用がはじまり、米の加工品である鏡餅、草餅、団子などが作られるようになる。

戦国・安土桃山時代

戦国武将が精神の安定を求め茶の湯を重んじた時代である。茶道が確立され、「懐石料理」が誕生した。堅苦しい形式の本膳料理とは対照的に、お茶の前に軽い食事を楽しむというものだ。
南蛮貿易により新しい野菜や香辛料、砂糖などが伝わり、天ぷらの原形となるものももたらされる。南蛮料理や中国料理も導入されるようになり、日本料理も影響を受ける。また、玄米が主流だったが白米食が定着するようになる。

江戸時代

太平の世となり、日本料理はさらに進化する。料亭の出現により酒を中心とする宴会料理である「会席料理」が誕生した。また、江戸に各地の食材が集まり、天ぷら、握り寿司、うなぎ、そばが定着する。南蛮貿易ではさらに野菜の外来品種が輸入されるようになり、各藩による農水産物や特産品の生産も盛んになった。猪や鹿などの獣肉が食べられるようになり、牛肉を売る店も登場する。一日3食という食事習慣も定着した。

近代

明治時代に肉食禁止令が解かれ、文明開化とともに西洋文化が導入される。西洋の料理を和食化しながら取り入れることで、牛鍋やコロッケ、トンカツ、カレーライスなどが誕生した。西洋から伝わった料理を洋食というようになったことから、対するものとして和食、日本料理という言葉が使われるようになったともいわれる。
食が多様化するなか、日本料理(和食)も、海外の影響を受けながらも独自に進化する。同時に、ユネスコ無形文化遺産登録などを含め、日本料理のよさを伝えるための活動も広がっている。

3. 和食の五体系「京料理とは」

会席料理
京料理とは、京都における長年の歴史により形成された、日本料理の五体系をまとめたものである。五体系とは、「大饗料理」「精進料理」「本膳料理」「懐石料理」「有職料理」の五つの料理のことだ。いずれも出汁を使用すること、美しい器を用いて盛り付けや配膳にこだわること、客の好みに合う趣向を整えることなどが共通しており、おもてなしの心をもち提供される。各料理の具体的な内容や歴史を紹介していこう。

大饗料理

平安時代に誕生し公家社会のなかで発展した料理である。貴族の社交儀礼のなかの宴会料理といての位置付けだった。食材の切り方、寸法、盛り合わせが重視され、素材本来の味を大切にした料理である。内容は主に切った魚や干物などで、小皿に入れた塩や酢、醤油などの調味料を好みで付けて食べるスタイルだった。

精進料理

鎌倉時代に僧侶により伝えられた料理で、不殺生という仏教の教えをもとに、肉や魚を使わず植物性食品で作られている。野菜を中心とする内容で、大豆の加工技術を築き上げた料理でもある。禅寺院で食事を担当する役職である典座により、現在まで発展してきたといわれる。

本膳料理

室町時代に武家の礼法をもとに発展した料理で、現在も冠婚葬祭の場などで振る舞われることがある。儀式的な要素が強く、酒を中心とした献部にはじまり、膳部は本膳、二の膳、三の膳から成る豪華な料理で、見た目も美しい。

懐石料理

戦国時代~安土桃山時代に茶道が発展するなかで誕生した料理である。お茶を楽しむ前に空腹をしのぐ目的で振る舞われたもので、「一期一会」の精神をもとにとくに旬のものにこだわった内容となっている。一汁三菜の食べきれるだけの量を、コース料理のように順に提供するスタイルが特徴だ。
当時は会席料理と呼ばれていたが、江戸時代に高級料亭で食べられていたものと区別するために、懐石料理に変えたそうだ。禅僧の故事が由来で、温かい石でお腹(懐)を温め空腹をしのぐという意味合いがある。

有職料理

公家や朝廷、幕府で働く人々が楽しんだ御所風料理である。儀式や作法に従うという意味をもつ有職という言葉のとおり、宮中での節会の料理という位置付けである。茶懐石、精進料理、おばんざいなど町方料理がベースとなった内容だ。

4. 日本の郷土料理の歴史

ほうとう鍋
和食の一つとして、古くから日本人に大切にされてきたのが郷土料理である。地域特有の文化に基づき、さまざまな種類の郷土料理が親しまれてきた。そのなかから、代表的なものを歴史とともに紹介しよう。

せんべい汁(青森県)

南部せんべいをちぎって汁に入れて食べる料理で、具材には野菜や鶏肉を中心に、季節の食材が使用される。飢饉や凶作で米不足だった江戸時代後期に、八戸市周辺を含む県南部では麦、そばが栽培された。それらの粉でせんべいが作られるようになり、明治時代には堅焼きの南部せんべいが誕生する。この南部せんべいの食べ方の一つとして、せんべい汁が生まれた。

治部煮(石川県)

鶏肉や野菜、すだれ麩などを中心とした具材を用いた、とろみのある煮込み料理だ。治部煮という名の由来は、岡部治部衛門が朝鮮から伝えたという説、煮込むときのじぶじぶという音など、諸説ある。また、江戸時代に宣教師により伝えられたポルトガル料理を和風にした料理という説もある。

ほうとう(山梨県)

小麦粉で作った太く平たい麺とかぼちゃや根菜などを用いる、味噌煮込み料理である。養蚕が盛んだった山梨県の山間部では、蚕のえさとなる桑の収穫後、麦を栽培していた。その麦から麺を作り、季節の野菜と煮込んだのがほうとうのはじまりとされる。戦国時代の武将・武田信玄が、食材を切る際に自分の刀を用いたことが、宝刀(ほうとう)という名の由来の一説とされる。

5. 和食がユネスコ無形文化遺産に登録された理由

田の稲穂
和食(日本料理)は、日本人の自然を敬い恵みに感謝する心により生まれた文化である。「いただきます」「ごちそうさま」は、その精神が表現されたものといえるだろう。また、食材の元となる自然の恵みへの感謝だけでなく、食事に携わるすべての人への感謝も表れている。料理をおもてなしする心とともに敬い感謝する心が、和食文化、日本料理においては欠かせないのである。
ユネスコ無形文化遺産に和食が登録された背景には、このような和食文化が廃れてしまう危機があった。食文化が多様化するなかでも、日本人が大切にしてきた精神、心のこもった料理の継承が求められている。

結論

日本料理は歴史とともに育まれ、その時代の背景を反映しながら進化してきた。どの時代においても、豊かな自然の恵みからもたらされる食材を生かした調理や、おもてなしの心が大切にされている。その精神は、現在の和食文化にも引き継がれているといえるだろう。高級な日本料理も素朴な和食も、日本人の文化として大切にしていきたいものだ。
(参考文献)
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  • 更新日:

    2022年1月 3日

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