1. 雑煮は京都が発祥

丸く小さい餅を入れた雑煮が誕生したのは室町時代。場所は京都である。足利将軍家や上級武士の婚礼の儀の時に、両家と夫婦が末永く、固く結ばれることを願って盃が交わされたのだが、その酒の肴として雑煮が出されたという。ただ、それは現代のような汁物の雑煮ではなく、丸子餅とアワビやナマコなど海や山の幸を同じ鍋で煮たものであった。
そのため雑煮という名前で呼ばれるようになったのだが、「雑」は、ハレの日を祝うにふさわしいさまざまな食材を取り揃えるという意味である。雑煮に入れられるすべての具材は、仲睦まじく笑って暮らせるようにということや豊作などを意味するものが使われ、餅は円満に望みが成就するという意味がこめられた。汁気のない雑煮に加え、正月には汁物の雑煮も作られるようになり、やがて正月には武士だけでなく神社や僧院でも雑煮を食べて信念を祝うようになったという。
そして、戦国時代末期には京都の裕福な商家でも正月に雑煮を食べる習慣があったことが当時の文献から伺える。そして、雑煮が生まれた京都では、江戸も中期の頃になると白味噌仕立ての雑煮を食べるようになったという。それが雑煮の始まりである。
そのため雑煮という名前で呼ばれるようになったのだが、「雑」は、ハレの日を祝うにふさわしいさまざまな食材を取り揃えるという意味である。雑煮に入れられるすべての具材は、仲睦まじく笑って暮らせるようにということや豊作などを意味するものが使われ、餅は円満に望みが成就するという意味がこめられた。汁気のない雑煮に加え、正月には汁物の雑煮も作られるようになり、やがて正月には武士だけでなく神社や僧院でも雑煮を食べて信念を祝うようになったという。
そして、戦国時代末期には京都の裕福な商家でも正月に雑煮を食べる習慣があったことが当時の文献から伺える。そして、雑煮が生まれた京都では、江戸も中期の頃になると白味噌仕立ての雑煮を食べるようになったという。それが雑煮の始まりである。
2. 各地の雑煮

●京都の雑煮
雑煮は長い間、公家や僧侶、裕福なの商人だけが食べていたが、江戸時代中期になると雑煮発祥の地である京都では、他に先駆けて庶民の間にも雑煮が広まった。それは、京都では比較的短時間で醸造できる白味噌が作られていたことも影響している。白味噌はもともと甘い味がするので、わざわざ出しを取る必要もなく、また、色も白いので、具材の大根やにんじんの色が映えて、ハレの日にふさわしい美しい汁物に仕上げることができたためでもある。また、京都の雑煮の特徴として、頭芋(かしらいも)という芋を一家の主人と長男の椀に入れる風習がいまでもある。
●大阪の雑煮
京都では早くから庶民の口にも雑煮が入るようになったが、他の地域ではさらに遅れて元禄時代以降にならないと雑煮は普及しなかった。京都の次に雑煮が庶民に広まったのが大阪で、白味噌仕立ての雑煮に餅だけが入っていたという。井原西鶴が綴った『西鶴織留(さいかくおりどめ)』には、具は里芋と大根だけで餅が入っていなかったというくだりもある。蕪を輪切りにして餅の代わりに入れたという文献も残っていて、質素だったことが伺える。大阪は商家が多かったのだが、雑煮の餅の有無で、その家の経営状態が分かったという。
●江戸の雑煮
元禄時代には江戸でも雑煮が庶民に広まったが、江戸の場合、人口の半分を武士と僧侶が占めており、その後で庶民も食べられるようになったと考えられている。庶民の中でも最初に雑煮を口にしたのは文人である。そして、雑煮に入れるのし餅を作る"引きずり"という商売ができた。餅にはうるち米が使われたのであるが、餅をついて一つ一つ丸めていると時間がかかってしょうがない。あちらこちらの家を回って餅を作る引きずりは、餅を丸めるのではなく、四角く切ることで効率化を図ったのである。
雑煮は長い間、公家や僧侶、裕福なの商人だけが食べていたが、江戸時代中期になると雑煮発祥の地である京都では、他に先駆けて庶民の間にも雑煮が広まった。それは、京都では比較的短時間で醸造できる白味噌が作られていたことも影響している。白味噌はもともと甘い味がするので、わざわざ出しを取る必要もなく、また、色も白いので、具材の大根やにんじんの色が映えて、ハレの日にふさわしい美しい汁物に仕上げることができたためでもある。また、京都の雑煮の特徴として、頭芋(かしらいも)という芋を一家の主人と長男の椀に入れる風習がいまでもある。
●大阪の雑煮
京都では早くから庶民の口にも雑煮が入るようになったが、他の地域ではさらに遅れて元禄時代以降にならないと雑煮は普及しなかった。京都の次に雑煮が庶民に広まったのが大阪で、白味噌仕立ての雑煮に餅だけが入っていたという。井原西鶴が綴った『西鶴織留(さいかくおりどめ)』には、具は里芋と大根だけで餅が入っていなかったというくだりもある。蕪を輪切りにして餅の代わりに入れたという文献も残っていて、質素だったことが伺える。大阪は商家が多かったのだが、雑煮の餅の有無で、その家の経営状態が分かったという。
●江戸の雑煮
元禄時代には江戸でも雑煮が庶民に広まったが、江戸の場合、人口の半分を武士と僧侶が占めており、その後で庶民も食べられるようになったと考えられている。庶民の中でも最初に雑煮を口にしたのは文人である。そして、雑煮に入れるのし餅を作る"引きずり"という商売ができた。餅にはうるち米が使われたのであるが、餅をついて一つ一つ丸めていると時間がかかってしょうがない。あちらこちらの家を回って餅を作る引きずりは、餅を丸めるのではなく、四角く切ることで効率化を図ったのである。
3. 雑煮の餅

●丸餅と角餅
関西では丸餅、関東、中部地方、東北地方では角餅を食べる家が覆い。角餅は、先にも触れた通り、引きずりという餅を作る職人が効率的に餅を作るためにできたものであるが、一方、幕府が京都に対して向こうを張ったものであるという説もある。いずれにしても、角餅は焼けばふっくらと膨らんで丸くなり、そのため福を呼ぶとされた。また、煮ると角が取れるため、万事物事が丸く納められるという意味もある。そのため角餅は開運や縁起かつぎの意味も込められているという。丸小餅は、円満を意味する鏡餅の分身であるとの位置付けから、丸く形づくられた。
●鏡餅は食べるもの?
お正月、床の間などに鏡餅を飾るのも日本ならではの習慣である。鏡餅は年神様といって各家庭に新年の幸せや喜びをもたらすために高い山から降りてくる神様へのお供えものである。また、年神様の依り代といって宿る場所でもあるので、年神様が天上にお帰りになる1月11日までは食べてはいけないのである。1月11日は松の内が明ける日であり、それ以降は、鏡餅を食べることができる。しかし、鏡餅は神様が宿っているものなので、包丁を入れてはならない。木槌で叩いて割って食べるのである。鏡餅の表面は乾燥してひび割れするが、油で揚げてあられにしても美味しく食べられる。また、破片など形が整っていない餅は、炊飯する時に米に加えるともち米のような食感を楽しめる。
関西では丸餅、関東、中部地方、東北地方では角餅を食べる家が覆い。角餅は、先にも触れた通り、引きずりという餅を作る職人が効率的に餅を作るためにできたものであるが、一方、幕府が京都に対して向こうを張ったものであるという説もある。いずれにしても、角餅は焼けばふっくらと膨らんで丸くなり、そのため福を呼ぶとされた。また、煮ると角が取れるため、万事物事が丸く納められるという意味もある。そのため角餅は開運や縁起かつぎの意味も込められているという。丸小餅は、円満を意味する鏡餅の分身であるとの位置付けから、丸く形づくられた。
●鏡餅は食べるもの?
お正月、床の間などに鏡餅を飾るのも日本ならではの習慣である。鏡餅は年神様といって各家庭に新年の幸せや喜びをもたらすために高い山から降りてくる神様へのお供えものである。また、年神様の依り代といって宿る場所でもあるので、年神様が天上にお帰りになる1月11日までは食べてはいけないのである。1月11日は松の内が明ける日であり、それ以降は、鏡餅を食べることができる。しかし、鏡餅は神様が宿っているものなので、包丁を入れてはならない。木槌で叩いて割って食べるのである。鏡餅の表面は乾燥してひび割れするが、油で揚げてあられにしても美味しく食べられる。また、破片など形が整っていない餅は、炊飯する時に米に加えるともち米のような食感を楽しめる。
結論
最近は丸餅もあれば角餅もあるところが多く、和菓子屋さんなどに行くとあん餅も手に入る。餅の形や汁や具材の違いを楽しんでみてはどうだろうか。
この記事もCheck!
- 東の角餅、西の丸餅の違いとは?それぞれの由来も解説
- 知らないと損!お餅のくっつかない焼き方
- 恥かきにならない!「鏡開き」は何を開く?由来や意味は?
- 一般的な鏡開きは1月11日!鏡餅を飾る理由~処分の仕方!
- 特別な食べ物だった!?餅の歴史や上手に焼く方法
- イザという時に役立つ!餅をのどにつまらせる事故を防ぐには
- 餅を電子レンジで調理可能!セリアのキッチン便利グッズでお餅を調理
- もち米を美味しく食べよう。炊く・蒸すは意外に簡単!
- カチカチで切れない・・・時間が経った鏡モチを美味しく食べるには?
- 餅は何歳から?詰まらせないための注意点や詰まらせた際の対処法は?
- 関東と関西で全然違う!?「おしるこ」と「ぜんざい」の違いとは